歴史を学ぶ究極の目的

こんにちは。足利の学習塾 森戸塾の森戸です。

毎週水曜日は中3の授業です。

今週の社会は、第2次世界大戦について勉強しました。

現在の中学生にとって、第2次世界大戦は遠い過去の話であり、まさに歴史のなかの出来事だと思います。

しかし、私にとっては、歴史と呼ぶほど遠い昔の話には感じられません。

子供の頃、実際に戦争を経験した祖父母から、戦争の話を聞いたことがあるからです。

私の祖父母は、埼玉県の熊谷市に住んでいました。

昭和20年8月14日、熊谷市はアメリカ軍の空襲を受けます。

当時、祖父は軍隊に召集されていて不在でした。

祖母は、まだ幼かった叔母と二人で、留守を守っていたそうです。

その時、アメリカ軍のB29が熊谷を襲ったのです。

祖母は家を飛び出し、叔母の手を引いて、大きなお腹を抱えながら、ひたすら逃げまわったそうです。

そして、一晩中歩き続けて、次の日の朝、隣町にある自分の実家に、やっとのことでたどり着きました。

気がつくと、足袋の底がすっかり抜けて、ほとんど裸足の状態になっていたそうです。

その日の昼、あの有名な玉音放送が流れ、戦争は終わりました。

ちなみに、その時、祖母のお腹の中にいたのが、私の母です。

終戦後、間もなく生まれました。

その後、祖父も無事に戻り、平和な生活が戻ってきました。

しかし、小さな子をかかえて、戦後の混乱期を乗り越えるのは、とても大変だったと思います。

今となっては、祖父と祖母に、もっといろいろと当時の話を聞いておけばよかったと思います。

ところで、戦争の話に触れるたびに思うのは、当たり前であることのありがたさです。

以前「この世界の片隅に」という映画を見ました。

主人公の「すず」が、食料不足のなかで、なんとか家族に満足な食事を作りたいと奮闘します。

しかし、あまりにも食料が足りないため、なかなか満足がいく食事とはなりません。

また、もう何年も前の話になりますが、ある生徒からこんな話を聞きました。

その生徒は、家でダラダラと過ごしていると、おじいちゃんから、ものすごく叱られるそうです。

「俺がお前らの年の頃は、中島の工場で飛行機つくってたんだぞ!」

ご存知の方も大勢いるかと思いますが、太田にある「スバル」は、戦前まで「中島飛行機」という、日本を代表する航空機メーカーでした。

この中島飛行機では、当時の陸海軍が使っていた戦闘機や爆撃機などが、大量に生産されていました。

そして、特に戦争が激しくなると、まだ10代の学生たちが、労働力不足を補うための戦力として、学校の勉強もそこそこに、工場に勤労動員されたのです。

たとえ勉強がしたくても、とてもできるような状況ではなかったわけです。

したいことが自由にでき、将来を自由に思い描くことができる。

現代を生きる私たちは、これを当たり前のことだと考えています。

しかし、これはけっして当たり前のことではなく、実はとても恵まれた状態であることを、肝に銘じなければなりません。

私自身、実際に戦争を経験したわけではないので、生徒に向かってけっして偉そうなことは言えません。

ですから、これは自分自身に対する戒めとして、肝に銘じたいと思います。

ところで、歴史を学ぶ究極の目的とは何でしょうか。

時代がいくら変わっても、人間そのものは大きくは変わりません。

兼好法師の「徒然草」などを読むとよくわかりますが、現代の人間も、昔の人間も、ものごとに対する感じ方や考え方はだいたい一緒です。

ですから、歴史は単に過ぎ去ってしまった過去の出来事というわけではありません。

現代の私たちにも、そのまま当てはめてることができる「人類普遍の物語」なのです。

ですから、私たちはそれを学ぶことにより、これから何をすべきであり、何をすべきではないかを知ることができます。

太平洋戦争では、結果として、何百万人もの人々が犠牲となり、日本中が焼け野原となりました。

しかし、開戦前には、アメリカとの戦争に反対する人たちもたくさんいました。

真珠湾攻撃を立案した、連合艦隊司令長官の山本五十六もそのひとりです。

山本五十六は海軍の駐在武官として、アメリカで暮らした経験があります。

それゆえに、日米の国力差を肌で感じていて、もし戦争となれば、日本に勝ち目がないことが十分にわかっていたのです。

また、内閣総理大臣直轄の機関である「総力戦研究所」も、開戦前に日米間の戦いをさまざまにシミュレーションした結果、日本の敗戦は必至であると結論づけています。

「戦争はやってみなければわからない」

しかし、時の政府はこの一言で、大勢の国民を巻き込み、勝ち目のない戦争へと突き進んでいったのです。

日本が過去のような戦争をくり返すことは、おそらくないでしょう。

しかし、それとはまた違ったかたちで、歴史がくり返されないことを祈るばかりです。

今日はこのへんで。

(写真は昭和58年に廃止された東武熊谷線の車両。東武熊谷線は、中島飛行機の工場に人員と資材を送るために、昭和18年に軍の命令によって、建設が開始されました。当初計画されていたのは熊谷から太田まででしたが、熊谷から利根川の手前の妻沼まで建設されたところで戦争が終了。その後、建設が再開されることなく、昭和58年に廃線となりました。廃線当時に使われていたこの車両は、現在、熊谷市立妻沼展示館で見ることができます。)