こんにちは。足利の学習塾 森戸塾の森戸です。
夏といえば、日本各地で、さまざまなイベントやお祭りがおこなわれるシーズンです。
しかし、なかなか出口の見えないコロナ禍の影響により、今年も多くの催しが中止となっています。
例年であれば、今日、7月20日は埼玉県の熊谷市で「うちわ祭り」が始まるはずでした。
しかし、昨年同様、今年も神事のみが執り行われ、うちわ祭りの代名詞ともいえる、山車屋台の巡行は自粛となってしまいました。
このうちわ祭りは「関東一の祇園」とも称され、各地区ごとの山車や屋台が、勇壮なお囃子とともに、3日間にわたって市内を練り歩くお祭りです。
最終日の夜は、全12台の山車屋台が熊谷駅前に一斉に集結し、その絢爛豪華さを競い合います。
人々は熱狂に包まれ、夜空にはお囃子とともに歓声が響きわたり、祭りはいよいよクライマックスを迎えます。
熊谷といえば夏の暑さが有名ですが、熊谷の夏は、うちわ祭りとともに始まるのです。
私の夏も、子どもの頃は、毎年このうちわ祭りで始まりました。
1学期の終業式が終わると、出たばかりの宿題を携え、当時住んでいた大宮から、祖父母の待つ熊谷へと向かいました。
そこには歳の近い従兄弟たちもいて、楽しく過ごすには事欠きませんでした。
「さあ、これから楽しい夏休みが始まるぞ!」
熊谷の駅に降り立ち、祭囃子の音を耳にすると、とてもワクワクしたのを覚えています。
さて、子どもの頃の私といえば、算数がとても苦手な小学生でした。
それは、中学校でも変わらず、算数が数学に変わっても、やはり苦手なままでした。
そして、高校に入ると、私の数学はいよいよ壊滅的な状態となり、1年生の終わりを待たずして、私立文系コース行きが決定的となりました。
しかし、教える立場となって、あらためて勉強しなおしてみると、数学が意外にもおもしろいことに気づきました。
もっと早くのうちから、しっかりと勉強しておけばよかったと後悔しています。
このように、学生時代は「超」がつくほどの文系人間だった私ですが、当時は、それがさほど損なこととは思っていませんでした。
しかし、実は、超文系人間はとても損なのです。
文系思考の人間は、ものごとを考える際に、理論よりも感情を優先しがちです。
ものごとを、理論によって冷静に判断するのを面倒くさがり、ついつい気分や感情で判断してしまうのです。
もっとも、すべてを理屈や理論だけで判断することは、人間本来のありかたに反します。
例えば、マーケティングの世界では、人は何か新しいものを買う際、理屈ではなく感情でものを選んでいると言われています。
そして、あとから理屈をつけることによって、それが正しい選択であったと、自分自身を納得させているのです。
しかし、ものごとにはそれでいい場合と、そうでない場合があります。
やはり、進学や就職などに関わる大きな決断をする際は、なるべく感情を抑え、できるだけ理論的に考えたほうが、あとあと後悔が少なくて済みます。
また、日常のさまざまな問題を解決する際も、問題を細分化したり、いろいろな角度から見ることによって、容易に解決する方法が見つかったりします。
そのときに役に立つのが、まさに数学的な思考なのです。
数学の問題を解くには、まずは問題文をよく読み、その内容をしっかりと理解する必要があります。
そして、つぎに、与えられた条件を図や表などにして、頭の中をよく整理します。
さらに、それらを使って、問題を解くための筋道を見つけ、あとは答えに向けていっきに計算をおこないます。
ほとんどの数学の問題はこのようにして解きますが、このプロセスが、人生のさまざまな場面でそのまま応用できるのです。
つまり、何かの選択や問題解決を迫られたときは、できるだけ感情を排して、ものごとの中に含まれている条件のみから、ベストな答えを導き出すのです。
「ああなるはずだ」とか「こうなってほしい」といった、感情面から来る希望的観測でものごとを考えてはいけません。
なるべく感情を横に置き、考えられる最善の策や選択を、与えられている条件から冷静に判断するのです。
一見すると、ものすごく当たり前とも思えるプロセスですが、感情の生き物である人間がそれをするには、やはり訓練が必要なのです。
それこそが数学の勉強というわけです。
数学の授業で習う方程式や関数を、日常の生活で使うことはほとんどありません。
しかし、なぜ数学を学ぶのかというと、数学を学ぶということは、ものごとの考え方を学ぶことだからです。
したがって、数学の学習を疎かにしてしまうと、人生全般で大きく損をしてしまうことになるのです。
「こんなことが何の役に立つのかな~?」
数学が嫌いな生徒は必ずこう考えます。
しかし、かつて数学が大嫌いだった私が断言します。
数学は必ず役に立ちます。
ぜひ、食わず嫌いにはならず、がんばって勉強してみてください。
今日はこのへんで。